漢字文化の困惑

二〇〇四年春、新しい就職先に潜り込んだものの、暫くすると、自分のポジションは恐ろしくヒマな事に気が付いた。いくら穿り出すように無理矢理仕事を探し出そうとしても、それにも限度がある。はっきり言って辛い。一体前任者はどのようにこの状況をやり過ごしていたのか、著しく謎だった。

あまりにもヒマなので、とある初夏の日、休暇を取って旅行にでも出掛けようと思った。この後には別の旅行も控えていたので、立て続けに出掛ける羽目になったその年の七月は正味七日以下しか働かなかった。それでも何とかなってしまうのだから、どれだけヒマだったかおわかり戴けるだろうか。因みに筆者の仕事は時給制だったので、休みの間の給料は勿論支払われない。それでもする事もなくボ~としているよりは、何処ぞで散財していた方が余程マシである。

そんな訳で、なんとなく近場の韓国に出掛けようという気になってきた。

韓国には友人が一人いた。筆者はこの数年前にカナダに住んでいたのだが、その時向かいの家にホームステイしていた韓国人の女の子である。正確に言うと、筆者がステイ先を去って別の所で居候していた時期に彼女はやって来た。ステイ先を出た後も、そのお宅とはずっと懇意にして貰っていたので、その繋がりで彼女とも知り合った。彼女とカナダで会った回数自体はそれほど多くはないのだが、何故だか帰国後もよく連絡を取り合い、一度韓国のお宅へ遊びに行った事もある。

そんなこんなで、まだ韓国へ行く話が確定していない頃、韓国へ行くかも~、とその子に伝えたら、なんだか手放しで喜んでくれた。「うっ、まだ決定した訳じゃないんだけどな、行けなくなったらどうしよう」と心配するくらいの盛り上がりぶりだった。そして、決定してからは韓国に着いてからの事を何くれとなく世話を焼いてくれ、平日は私は仕事があるけど、一人で観光はできるか(できるって…)、ほら、コレが空港からのバスの時刻表のサイトよ(しかも日本語版)、ソウルでは泊まる所ある?妹がソウルにいるから、もしなかったら彼女の所に泊まれば良いから!と、ホントにまァ、その心遣いに頭が下がった。

そんな彼女が示してくれた、日本語版時刻表のサイトなのだが、それに関してちょっと珍妙な問題が持ち上がった。日本語版の時刻表、そりゃまァ、なんと有り難い。ところが。

「一体彼女の指定した都市行きのバスはどれだろう???」

つまり、日本語は日本語に違いないのだが、韓国の土地名が全て漢字表記なのだ。しかし、韓国では現在、日常的に殆ど漢字は使われていない。どの漢字がどういう発音になるかは決まっているが、筆者は当時、それをあまり詳しく知らなかった。彼女がローマ字で知らせてきた都市名と、漢字表記のそれとが符合しようがないのだ。一瞬困ってみたが、何の事はない、日本語ページがあるなら英語ページもあるはずだ。URLの中のJPNという部分をENGに置き換えたら同じ内容の英語ページが出てきた。そんなこんなで目的の情報がようやく引き出せたのである。

何故だか知らないが、日本の韓国旅行案内書では、地名を漢字表記している事が多い。しかし、韓国国内で漢字表記を見る割合は、恐らくカナダのバンクーバー市内でのそれよりも著しく少ない(バンクーバーはカナダでも随一の中国系住民居住率を誇る)。我々日本人にとっては、漢字の方が直感的に頭に入って来易いという利点もあるが、同時に韓国語の発音を意識する妨げにもなる。ハングルかローマ字、或いはカタカナで表記して貰った方がなんぼか便利だと思うのだが…。

友人は以前ソウル郊外に住んでいたのだが、いつの間にかそれより南のチョンジュという街に引越しており、その近所の比較的大きな都市、テジョンまでバスで来るように言われた。テジョンを漢字にすると「大田」となる。元々この都市は朝鮮固有語で「大きな田園」を意味する言葉で呼ばれていたが、日本人が勝手に漢字を当ててしまったそうだ。そういう地名は結構あるらしい。因みに、首都ソウルは全くの固有語で、漢字を当てる事はできない。かつて日本人によって「京城」と呼ばれてはいたが、首都だけに固有語としての名称の方が生き残ったのだろう。

最近は日本でも、韓国人や中国人の名前はオリジナルの読み方を表示するようになってきたが、それでも日本語の音読みをそのまま当てる事が多い。伊藤博文を暗殺した朝鮮の英雄は「アン・ジュウコン」(ホントは「アン・ジュングン」)で、中国の昔の国家主席は「モウ・タクトウ」(「マオ・ツェトン」?)だ。日本語読みをしていては世界の何処へ行っても通じないし、また、他の外国人が原音に近い発音をしても、我々は誰の事を話しているのか理解できない。

コレと逆の事はそれぞれの国でも起こっていて、例えば中国では、日本人の名前は、とても人の名前とは思えないようなもの凄い発音にされてしまう。また、韓国でも中国俳優の名前は韓国語読みされてしまうらしい(日本人の名前は原音通りに発音される)。香港の有名なアクション俳優、と、ジャッキー・チェンの話をしているらしいのに、ああ、あの人ね、と日本での通称を言ってもイマイチ通じていなかった事があった。韓国人とも中国人とも、ある程度漢字で筆談をする事が可能で、その点は便利であるが、一方で微妙な相違故になかなか厄介な面もあるようだ。