ドイツでは虫けら呼ばわり

いわゆる「ローマ字表記」「ローマ字綴り」と呼ばれるものは、国によって様式が異なる。日本語用の「ローマ字表記」は、大概日本人にしか通用しない。日本語とよく似た母音体系を持つイタリア語・スペイン語などの話者にはこの限りではないが。して、日本人の名前、地名は外国人に正確に発音されない事が多い。昔、「Satoru Furukawa」さんの名前がアメリカ人によって「さとぅらはらかわ」と発音されていたのを聞いた事がある。なんじゃそりゃ?

こんな事から、「外人って日本人の名前をちゃんと発音できないよね」なんて言う人もいるが、この原因は各言語の「ローマ字表記法」が異なる事にあると思われる。ナニ、一見綴りと発音の関係が無茶苦茶に見える英語にだって、一応彼らナリのローマ字表記法が存在するらしいのだ。それに従って外人の名前を読み上げようとするため、右のような滅茶苦茶な発音にされてしまうという訳だ。

アルファベットのみを使って言語を表記する人々にとっては、日本語など、独自の文字体系はいとも不思議なものに見えるらしい。特に日本の仮名文字は、一音ではなく、一音節を一文字で表す特殊な部類なので、とりわけ謎が深いらしい。

筆者の持っているドイツ語会話書は、ドイツ語の文の下にカタカナで振り仮名が振ってある。ドイツ人にそれを見せたら、「この下にある文字は何のため?必要なの?」と訊かれた。言われて初めて思い当たったのだが、例えば彼らが英会話書を持っていたとして、そこには「振り仮名を振る」必要は恐らくないだろう。何分、殆ど同じアルファベットを使っているのだから。アルファベット以外の文字を使う言語を学習した事のない彼らにとっては、ドイツ語文の下の振り仮名が本当に必要なものなのかと疑いたくなるのも無理はない。

ドイツ語は英語と違って、正書法がきちんと定められており、発音と綴りはほぼ一対一の関係になっている。だからその規則を覚えれば、振り仮名なしでも読めるようになるし、むしろその方が正確な発音ができるようになる。

それにしても、二重母音についての規則は殊更奇妙である。まァ覚えてしまえばなんて事はないが、例えば、「eu」と綴って「オイ」と発音する。我々からすると何故「oi」じゃダメなんだろう?と突っ込みたくなるところである。ドイツは「Deutsch」と綴って「どいちゅ」と読む(なんかカワイイ)。また、「ei」と綴って「アイ」と読む。卵という単語はそのまんま「Ei」である。

さて、この「ei」という綴りが筆者にとってはなかなか厄介な代物である。

筆者の名前はローマ字で「Keiko」と綴るのだが、はい、これをドイツ語読みすると…

「カイコ」

そうなのだ、ドイツへ行くと筆者は多分にもれず、虫けら呼ばわりされてしまうのだ。初めてドイツへ行った時、親切な二人連れのドイツ人青年に出会った。一人はとても英語が上手い人で、そのせいかすぐに正確な発音を覚えてくれたけれど、もう一人のイマイチ英語が得意でない方は、いつまで経っても虫けら呼ばわりしてきた。ドイツ人に確実に正確な発音で呼んで貰うためには「Käiko」と綴らなければならないようだ(äは日本語の「え」とほぼ同じ発音)。

さて、ドイツはこれまでに何度か訪れていたので、今更虫呼ばわりされても驚きゃしない。空港に迎えに来てくれた人は本人確認する時「カイコ?」と訊いてきたし、イベント主催者も「Oh!カイコ!nice to see you!」と出迎えてくれたし、間違った認識のまま他の人に紹介するものだから、皆が皆「カイコ」と覚えてしまう。まァ、ドイツでは蚕でもイイや、と放っておいたのだが、出番直前、司会進行役の女性が「ところであなたの名前の正確な発音は?」と訊いてきた。訊かれてしまっちゃァしょうがない。正しい発音を教えて差し上げた。同時に、彼女は筆者の出身地も訊ねた。が、聞き慣れない響きの外国の地名を覚えるのは至難の業。筆者の出演前、彼女がなにやら筆者の紹介を喋っていたが、「さっき出身地を訊いたんだけど忘れちゃった」みたいな事を言っている。この事で舞い上がってしまった彼女、

「それでは次の出演者、カイコォォォォ!!」

と、声高らかに紹介してくれたよ…

翌日も地名と名前の発音を確認しに来た彼女、今度はちゃんとするね、と宣言し、地名の方は手の甲に書いたカンペの助けで何とか言えたものの、名前の方はまたもや「カイコォォォォ!!」三日目からは余裕が出てきて、やっと両方とも完璧に言えるようになった。

さて、この後出掛けたインゴルシュタットのショーでも筆者の直前の出演者の男性が紹介を受け持っていたのだが、やはり発音を確認しに来た。そんなに気にしなくてもいいよ、と言ったのだけど、「いやいや、こういう事はできるだけきちんとしないと」とおっしゃる。素晴らしい心掛けではありませんか!が、自分の演技が終わってほっと一息の彼、「彼女はとお~い、とお~い所から来ました…」と、子供の観客に向かって紹介し始めたものの、最後の最後に一言、

「それではお迎えしよう。カイコ…」

オ、オジさん、間違ってます…

こちらのショーは計三回あったのだけど、結果は一勝二敗。最後の日にようやく正しく発音できたようだ。因みに、ショーは一日二回あって、一回目は子供向け、2回目は大人向けのナイトショー。ナイトショーの司会を担当した別のオジさんは三連勝。かなり英語が上手い人で、ギリシャ語の日常会話もこなすマルチリンガル。外国語への関心が高い人は外国語と母国語の特徴を切り離して考える能力が高いのかもしれない。