カナダ
第2節 カナダでのフツーの出来事

人の鎖

カナダにいると、なんだか知人の数がどんどん増えていく。それも、直接知り合った人よりも、誰かに紹介されて出会った人が多いのだ。数週間一緒に暮らしたゲイのルームメイトと出会うまでにも、実に数奇な成り行きがあった。話はその時点から5年ほど遡る。

当時筆者はワーキングホリデー・ビザを持って来ていた。滞在期間は1年間で、その前半はマジックのイベントに参加する事と、その準備に費やしていた。その後、田舎町のKamloopsからバンクーバーに移り、しばらく寿司屋で巻物職人として働いていたのだが、醜男のオーナーと、偏屈でムーディーな板前の両方と馬が合わず、結局、2ヶ月で突然首を言い渡されてしまった。

贅沢しなければ何とかやっていくくらいの蓄えはあったので、そのまま再就職せずに、またもやのんべんだらりと過ごしていたのだが、その頃家族がバンクーバーに遊びにやって来た。、その時母親が持ってきた折紙が筆者の生活を変えた。取り敢えず、という感じで、楠玉を作ってみた。多数のピースを組み合わせて作るので、結構大変な作業だが、色の組み合わせによって表情が様々に変化し、面白くてどんどん作ってしまった。

当時のルームメイトは、陶器に絵付けをしたり、イラストを描いているアーティストだった。ちょうどその頃、彼女は作品を売るためにホームクラフトショーなるものを行う準備をしていたのだが、なんだったらアンタもそこでその楠玉を売ったら?ついでにマジックもやってチップを集めなよ、と提案してくれた。それで体よく宣伝用ビラ配りの人員にもされたりしたのだが。

どうせなら、という事で、他にもフェルトのかめのマスコットなど、暇に任せて色々作った。売れ行きはそこそこだったが、意外にもたくさんのチップが集まり、筆者の懐はほんのちょびっと暖まった。しかし、売れ残った大量の作品。これをどうしてやろう。

思い付いたのは、人通りの多い路上に店を開いて売る、という事であった。これには許可証が必要だと後で聞いたのだが、無許可でやっている人は結構いた。クリスマスシーズンにはイリーガルな物売りがダウンタウンにたむろする。日によって売れ行きはまちまちだったが、日に40ドルくらい儲かった事もある。元手は殆どタダだから、結構な儲けだ。

ある日、いつものように道端に座って折紙を折りながら客待ちをしていると、年配の日本人のご婦人が声をかけてきてくださった。日本育ちだが、こちらに来て日系の男性と結婚され、以来ずっとバンクーバーに住んでいる方だった。なんだかんだと励ましの言葉をかけてくれたあと、良かったら連絡をしなさい、と、電話番号を教えてくれた。カナダを去る間際になって、彼女の所に連絡すると、あらまァ、ぜひ遊びにいらっしゃい、と言ってくださったのだが、ちょうど孫娘のバースデーパーティーがあるので、それに来てはどうか、と言われた。こんな見ず知らずの者がいきなり行って良いものなの?と驚いたが、カナダではそう珍しい事でもないらしい。喜んで参加させて貰った。

2度目にカナダに行った時も、このご家族と連絡を取り合い、夏の終わりにはバーベキューパーティーに招待していただいた。バンクーバーエリアの親戚一同と、ご近所の方、孫娘の日本語の先生、そのお子さんなど、実に多くの人がわやわやと集まって来た。日系人から白人まで、人種も雑多なら、離婚再婚が日本より一般的なこちらでは、義理の子供、義理の孫など、無茶苦茶複雑な親戚関係。しかしそんな境遇に構う人など1人もおらず、とても楽しい雰囲気だった。

ゲイのルームメイトを紹介してくれたのは、この時知り合った日本人の女性である。ゲイカップルの片方が、彼女の別れた旦那のお兄さんの元カレだそうだ。旦那とは縁がなくなった今も、彼らとは家族ぐるみで付き合っていて、彼らは彼女の子供達の叔父さんのような存在なのだという。

こちらでは、ポットラック・パーティーと言って、それぞれ1品ずつ持ち寄ってカジュアルなパーティーを開く事が盛んだ。既知の友人同士だけでするのではなく、ホストがお互い面識のない自分の友人を招待する事もあるため、そこで新しい知人ができる事は稀ではない。この時のバーベキューパーティーもまさにそうであるし、この他にも色々な人とこのような繋がりで知り合う事ができた。
日本ではどうだったか、と考えてみると、同じようなケースは1~2件くらいしか思い付かなかった。そして、それらのパーティーを主催した友人はアメリカやオーストラリアに長期滞在した事があって、こういう形式の人脈作りに長けている人なのだった。

こんなオープンな人間関係が自分の危機を救ってもくれたし、より楽しい時間を送る手助けもしてくれた。日本でももっと一般的になって行けば良いのに、と思うが、はた、と思い当たったのは、家屋の広さである。大勢の人が入り込んでうろつき回り、お互い気の合う人を探して話をする、などという充分なスペースのある家は、都会のさなかにそうそうあるものではない。精神風土もさる事ながら、物理的な条件が妨げになっているのか、としばし思いをめぐらせた次第である。