カナダ
第5節 こーゆートコロが困るんだ

北米のクラフト熱は…

折紙がとっても人気

初めてカナダに行った時、迎えに来てくれたホストファミリーと車で家へ向かう途中、末の男の子が筆者に訊いてきた。「『おうぃぎゃみ』を知ってる?」…当然そんなものは知らない。「知らない」と言うと、なんだか怪訝な顔をしていた。少し後で判明したのだが、彼は「おりがみ」の事を言っていたのだった。

日本語のローマ字表記法は、日本語のための特有のものだ。中国語、韓国語などのローマ字表記が我々には上手く読めないのと同じで、英語圏の人々にとっても日本語のローマ字表記は読み辛いものらしい。空手や忍者など、日本語がそのまま単語として認識されている事は珍しくないのだが、右の「おうぃぎゃみ」のように、日本人が聞いても元の単語がなんだったのか判別できないほどとんでもない発音になっている事は多々あるのだ。


将軍    → しょうがん
ヌンチャク → なんちゃく
カラオケ  → きゃらおき
恵子    → きーこ
空手    → きゃぅわてぃ

  • [u]の表記が単語の途中にある場合、弱い「あ」の発音になる
  • [e]の表記は「い」に近い音になる
  • [ei]など、母音の連続表記だと、英単語の例にのっとって発音されてしまう
  • 日本語の[ラ行]の発音がないので、右の「おうぃぎゃみ」のようにヘンに聞こえる事もある

そんな事はともかく。カナダでは折り紙が非常にポピュラーで、大抵の子供は1度は折り紙を折った事があるようだ。つい最近話した10歳くらいの女の子によれば、彼女の学校では週1回、日本人講師による30分くらいのクラスがあるという事だった。彼女は、このクラスでは先生が直接教えてくれるから、とってもわかりやすくて良いと言っていた。日本の皆さんは、ここで「はて?」と思われたのではないだろうか。考えてもみれば、日本で折紙のクラスなんて聞いた事がない。せいぜいあっても幼稚園くらいまでか。小学生にでもなれば、勘の良い子なら、解説を見ながら大抵の物は1人で折れてしまう。つまり、わざわざ学校で教えるほどの事ではない。勿論、カナダと違って各家庭の年長者、筆者の場合なら姉やら母から多少の教えを請う事ができるという点で、彼らより有利ではあるが、それにしたって年中ついて回って折り方を習う訳ではない。折紙が気に入れば、本を見ながら自分だけで楽しみ、あるいは如何様にでも応用して何かを折っていた訳だ。

信じられない事に、こちらの人間は、折紙の解説を解読する事ができない人が多いようなのだ。ある時、知人が折紙の手法を布地のクラフトに応用した手作りキットを見せてくれたのだが、その作品見本が指示通りにきちんと折られ、崩れないように待ち針でしっかり留めてあった。「ここに折り方が書いてあるけど、よくわからないから、崩れたら直せないので」という事なのだった。それは着物の形の直線的な折り方で、大して難しそうでもなかった。

また、ホームステイ先の子供が「ココがわからないんだけど」と持ってきた折り紙の本を見てみると、「何でこれがわからんのだ?子供の時だってアタシならこれくらいなんて事もなくできたさ」というくらい、バカみたいに簡単な所で躓いていた。折り紙教室がもてはやされる理由はこんな所にもある訳だ。

クラフトセール

ところで、筆者は、クラフトセールというイベントに参加するため、2002年の冬、1ヶ月置いて再びカナダに渡った。クリスマス前、各地のコミュニティセンターなどで盛んに催されるのだが、参加者は決められた値段で権利を買い、セールの日に自分の作品を持ってきてテーブルの上に並べ、販売する。誰でも参加できるが、事前審査が必要な場合もある。審査が厳しい所ほど作品の質が高く、また、テーブル代が高い。反面、作品の単価を高くできる上、前年以前の評判が高ければ客足も多くなる訳で、テーブル代の安い、グレードの低い所へ行くよりは、利益が見込めるのだ。筆者が参加したのは地元のオバちゃん達が暇に任せて作ったものをべらぼうに安い値段で叩き売っているようなクオリティの低い所ばかりだったが、もっと芸術志向の高いセールもあるようで、これはシーズン問わず、北米各地で行われているらしい。

この時のクラフトセールには、布で作った小物と共に折紙の作品も置いておいた。恐ろしく手間暇はかかるが、材料が軽くてかさばらず、安価である上、折り上げればかなり見栄えがするのが利点である。自分の人件費さえ気にしなければ単価が安くできるのも有り難い。実際のところ、筆者のセールでの一番の売れ筋商品だった。

ところが。

見た目が綺麗なので確かに人目は惹く。ただ、紙でできているので随分安かろう(多分1ドル以下)と思われているのだろう、設定した値段を見ると「そうよね、手間が暇かかってるものね」と、言い訳のように呟きながら薄ら笑いを浮かべて去って行く人が多い。売れなければ仕方がないので、少しずつ値段を下げてはみたものの、こちらにだってプライドがある。カナダのオバちゃんのように材料費プラスαだけで叩き売るくらいなら知り合いにタダであげた方がマシである。そんな余計な自尊心のせいで、なかなか苦戦していた。

ところで、人種によって、作品に対しての興味に面白い違いがある事に気が付いた。カナダ人(白人)の大人は筆者の折紙作品を見ると、「OH!MY!GOD!とっても綺麗だわ!私も作ってみたいけどきっと無理ね。不器用ですもの。忍耐もないしね。」という感じで、自分で作るのは不可能だと思い込んでいる(まァ、有体に言って事実かもしれない)。逆に、自分の能力の限界を知らない子供の方が、果敢にも「教えてくれ」と言ってきたりする(勿論彼らの能力は恐ろしく低い。そしてそれを甘く見ていた筆者は電車の旅で痛い目に会った)。アジア人だとまた様子が違っていて、多分、西洋人よりこういった細かい作業に慣れているせいか、「自分でもできそう」と思うようだ。折紙の経験が多少はある日本人や日系人は勿論、中国人や韓国人が「折紙教室をやってくれない?」と訊いてくる。中でも笑えるのが中国人で、「いっぱい欲しいけど、買うと高いから、作り方を教えて」ときたもんだ。「国民性だなァ」と、つくづく思ってしまった。こんな人はきっと講習を受けに来ても受講料を払う気なんてさらさらないんだろう…。アイデアや労働力など、形のないものをタダだと思い込まれるのは困ったものである。別の日系人のオバちゃんは、「受講料を払うからぜひ私達に教えに来て!」と言ってくれたというのに。こういう感じの良い方になら無料講習したって全然勿体なくないのだが。

習わなきゃ何もできんのか!?

先にも述べたように、筆者が参加したクラフトセールはあまりレベルの高いものではなかった。オリジナリティを追求したり、手間をかけて芸術性を出そうとしたものは殆ど皆無で、クラフトショップで買ってきた既成のパターンの大量生産であったり、何の変哲もない直線編みの編み物であったりする。自慢する訳ではなく、事実なので申し上げるのだが、筆者の作品は自分なりのアレンジを加えたり、あるいは全くのオリジナル手法で手間暇かけて創作した物が殆どだ。従って、作品に対してそれなりに思い入れがあるため、高めの値段設定にしてしまった。しかし、安いセールを目当てに来るカナダ人が手を出すにはあまりにも高かったようで、売れ行きはサッパリだった。間違った所に来てしまったかも~、と思っても後の祭りである。

ところで、筆者の作品の中に、ハギレを折紙のように折り、台布に留め着けてながら作る凝ったパターンの鍋敷がある。元々祖母が近所で習ってきたと言って見せてくれた小型の物にアイデアを得て、それから様々なパターンをデザインしてオリジナル作品に仕立て上げた。祖母から作り方を習った訳ではなく、現物を見ればその構造は一目瞭然で、同じ物を作るのは至極簡単だった。

ある時筆者の前に、そのオリジナルアイデアを習いたいと言うカナダ人の果敢なオバちゃんが現れた。彼女が例の鍋敷を指して訊ねた事は「これはとっても難しそうだけど、あなたが最初に習った時はどうだった?小さいのなら簡単かしら?」。これを聞いて、本当に行った場所が間違っていたと思った。何故、このオバちゃんは「誰かから習って作った」という前提しか思い付かないのだろう?また、大きさがどうであろうと作り方のシステムは一緒なので、一目見てその事に気付けないような人にはこれを作るのは到底無理だと思われた。大体、筆者自身が人から習って作った訳ではないのである。試行錯誤をしながら「自分にとって」効率の良い作業手順を考案してきたものだ。とてもじゃないが、これを他人に上手く教えられる自信はない。

いずれにしても、所詮、誰かから習って覚えようと思っている人からは、習った以上の広がりは生まれないのではないか。仮に筆者がこのオバちゃんに鍋敷の作り方を教えたとして、Aというパターンの構成の仕方を伝授したとする。他のパターンは単にAの応用でしかないので、ちょっと考えれば自分で方法を思い付く事ができるはずなのだが、多分彼女はBのパターンの作り方、Cのパターンの作り方を習いたがるに違いない。こういった応用の利かなさは、この北米の様々な場面で見てきた。昔は多分、クリエイティブで先駆的だったであろう彼らは、一体どうしてしまったというのだろう?勿論、感性の豊かなアーティストは彼らの中にもいるはずだ。しかし、それらの人々とそうではない人の凡庸さのこの激し過ぎる差は何なのだろう?彼らは簡単な折紙程度のものさえ、人から習ってしかできないのだ。こんな所に最近の北米人の限界を見たような気がする。

余談であるが、筆者のやっているマジックの世界でも、右のような事はよく見られる。よく「あなたは誰からマジックを習ったの?あのアイデアは誰が教えてくれたの?」と訊かれる。アイデアというのは何処か人の頭から生まれるものだから、そりゃァ誰かのアイデアである事は間違いなく、何処かにその創始者がいるはずだ。しかし、どうして誰も筆者自身をその創始者とは見ないのだろう?マジックの世界でも何処ででも、「女は比較的男より頭が悪くて不器用」などという暗黙の了解的な誤った見識がまかり通っていなくもないので、女である筆者が「思い付く訳ない」と、頭から決めてかかられているんだろうけれど。ま~、こっちの世界でも「マジックは習うもの」みたいな常識があるらしいので、それも勘違いの要因だろうが。そういえば、マジックは習うもの、みたいなオバちゃんも日本にいっぱいいたな。50万払うから、手取り足取りあなたの演技を全て私に伝授してくださいという罰当たりなババァに会った事もあるぞ!クリエイティブも何もあったものじゃない。限界から抜けられないのは北米人ではなくてオバちゃんなのか?

クラフトに限らず、マジックに限らず、常に自分のペースを保ち続けたい筆者は、誰かから何かを習うのはむしろまどろっこしく、かえって遠回りになろうとも、本を読んで独習したり、勝手に応用したりする事の方が多い。折紙のオーナメントは人から習って作れるようになったのではなく、あんな形の物を見た事がある、という記憶を辿り、試行を重ねて組み上げた結果だ。また、小中学生の頃など、教科書を読めば大体の事は理解できてしまったので、まともに授業を聴いていた事などなかった。先生にとっちゃ可愛くない生徒だった事だろう。マジックを始めたきっかけとなった大学のサークルでも、先輩の言う事を全然聞かず、とんでもない常識ハズレのアイデアを無理矢理強行した事もあった。こんな後輩がいたらイヤだろうな~、先輩達も大変だったに違いないと今になって思うが、当時は先輩方の影響力が弱くて我侭が通り易い環境であり、筆者にとってはやり易い事この上なかった。

筆者自身は、誰かから何かを教わって、その分野に関して教わった事以上の何も思い付こうとしない場合、その分野における自分の凡庸さに気付き、それに対する限界を見て、「これに関しちゃ自分は才能がないもんね」と、手を出さないようになってしまうのが常だった。だから、何もかも人から習った事だけしかやろうとしない人の気持ちは全然理解できないのだが、まァ、人には向き不向きというものがあるのだから、その辺を踏まえて楽しくやっていきたいものだ。

後日談

11月末日・12月1日参加のクラフトセールはダウンタウンのど真ん中。会場はコミュニティセンターで、ここには成人用のアートのクラスがたくさんあり、よく生徒の作品をロビーに展示している。質的にも客足的にも、ここはひょっとしたら脈有りかも、と思った。出店者のブースを見てみても、結構オリジナリティのある作品が多い。値段もそこそこ良い値をしている。筆者の隣で楽焼のブースを出していたカナダ人のオバさんの作品は、かなり個性的で趣味も良く、思わず1つ欲しいと思ってしまうほどだった。

それで、肝心の売り上げの方はどうだったかというと、やっぱり小物しか売れていかない。出ていくのは、ちまちました折紙のオーナメントばかりだ(大きいのは売れない)。しかし、その場で作っても作ってもはけていく。結局1日中ちまちましたものを作り続けていた。帰宅して、売り上げを計算して驚いた。今までの赤字分が見事に解消し、この月の市バス定期を買うくらいの余裕ができた。万歳!