恐怖の国境越え?再び

シアトルの北にEverettという街があるのだが、そこで小さなマジックのイベントがあり、サプライズ・ゲストとしてこっそり呼ばれた筆者は、同じくマジシャンのルームメイトにも出掛ける事を告げず、主催者と親しい別の知人と一緒に、イベントの一日前にEverettに乗り込んだ。

これまでに飛行機、バスの国境越えを経験してきた筆者だが、「マイカーで国境越え」は未経験だった。国際免許は持っていたものの、カナダでは殆ど運転をしなかったので、まさかそれをする事になろうとは思ってもいなかった(この時の運転手は勿論カナダ人の知人の方)。

BC州だけでもいくつかゲートがあり、この時行きに通ったのは一番海岸寄りのルートだった。いつもと景色が違うので、これはバスのルートと違うのか、と訊いたら、その通りだった。国境に平和記念公園のようなものがあって、国境線上にピースアーチという白い塔が立っている。だだっ広い芝生が広がっており、そこには柵もゲートもない。人々は簡単に国境線を跨ぐ事ができるが、どちらから来た人がどちらへ向かったか、ちゃんと監視されているそうだ。

その日は快晴に近く、海も綺麗に見えた。それと金曜日の午後という事もあって、国境付近は大渋滞だった。のろのろ運転が続いたので、我々は色々とくだらない世間話をしていた(筆者はもっぱら聞く方だったが)。国境付近のアメリカ側にデニーズがあり、「あそこで食事をする事があるんだけど」と知人が切り出した。デニーズではサービス券を発行しており、カナダでもアメリカでも特に区別して印刷していないそうである。同じドルという単位でも、米ドルの方が圧倒的に強いので、カナダで貰ったサービス券をアメリカで使うとちょっぴりお得な訳である。そんな事をするカナダ人は、筆者の知人も含めてぼちぼちいるらしい。ところが、デニーズ側もそれを知ってはいるのだが、不利益を被るほど多く行われている訳ではないので、目をつぶっているという。むしろそれによってお客が増えるなら、喜ばしい事だというのだ。

そんなこんなでようやくゲートにに辿り着いた。各レーンに計四台のカメラが設置され、車を前後から監視する。ドラッグや怪しい化学物質を検知するための装置もついている。たとえ車のボディーの間に隠してあっても、これでわかるそうだ。そして係官が通過する車を一台一台止め、同乗者全員のIDをチェックする。北米人がここを通る場合は、免許証など写真付きのIDを見せればOKだが、外国人はパスポートを提示しなくてはならない。筆者は三ヶ月以内にアメリカ入りしていたので、既に入国許可証を持っていた。バスで通過する時はいつも、これ以外に入国カードも書いていたのだが、この時はそれもなく、二、三の質問をされただけで車に乗ったまま通過する事ができた。係官の気分によってはオフィスに入れられて、これを書かされる場合もあるそうだ。

翌日イベントにやってきた筆者のルームメイトは、「朝起きたらいなかったから、僕よりうんと早く出掛けたのかと思った」と言っていた。筆者が出掛けた日、彼は朝八時前に仕事に出掛け、筆者は九時頃まで自室でぐうたらしていたから、顔を合わせる機会がなかったのだ。夜は夜で、お互いプライバシーには干渉しないので、筆者が不在でもあまり気にしない。大方もう寝てしまったとでも思ったのだろう。また、サプライズ・ゲストなだけあって、秘密は身内にも漏らされていなかったらしい。彼は筆者がイベントに出演するとは思ってもいなかったそうだ。

帰りはこのルームメイトと、彼の友人と一緒に帰る事になった。その友人を送り届ける都合で、いつもバスで通るのと同じゲートを通って行った。真夜中近いだけあって、国境付近は渋滞もしておらず、高々二時間ばかりでバンクーバーエリアに着いてしまった。

ゲートの通過は行きよりも更に簡単だった。まず、カナダ人の男性二人はIDの提示さえしなかった。ともすれば筆者もパスポートなしで通過できそうなくらいのものであったが、さすがにカナダ人男性二人とアジア人女性一人の組み合わせは一般的ではないので、係官は「彼女は北米の市民権を持っているか?」と、筆者にではなく、彼らに訊いた。「い~や、彼女は日本人で、僕らより一日早くアメリカに来てたんだ。」とカナダ人二人して、訊かれてもいない事までべらべら喋っていた。「彼女は既にカナダにいたんだな?」と、また彼らに向かって質問。「うん、僕と同じ家に住んでるのさ。」と、ルームメイトが言った。係官は筆者のパスポートにさっと目を通し、すぐに返してよこした。

よく考えたらこの時筆者は一言も発していなかったのだった。饒舌なカナダ人に守られた、無言の国境越えなのであった。

こんなに簡単に越えられる国境なら、むしろなくしてしまった方が楽なのに、と、外国人の筆者は考える。しかし、我々には見えない壁が、カナダとアメリカの間にはあるという。壁は、ベルリンの壁のように、なくそうと努力すればなくなるものかもしれない。が、今のところ両国にその気は全くない様だ。